守一氏の思い出
井上 忠
戦時中に守一氏のお宅で益軒の資料を拝見したことが機縁となり、戦後、私は貝原本家に足繁く通って主要資料をノートし、その研究に没頭するに至った。そして益軒の人柄と業績とを、現代人に判り易く紹介することに努めてきたつもりである。
守一氏を防塁前のお宅にお訪ねしたのは昭和18年の晩秋で、当時、指導をうけていた吉岡修一郎氏のご紹介によるものであった。その頃、私は九大国史研究室で、近世日本科学思想史といったテーマで勉強していたのである。守一氏は貝原本家から益軒の日記その他を借り出して奥様と読んでおられ、崩し字で読み辛いものであった。そこで守一氏は私もその仲間に加えて正確に判読し、併せて私の研究テーマの参考資料に、という二重の目的があったかと思われる。
道徳者益軒は小・中学校の修身に登場し、彼に倣うよう説教されたので、私はあまり善い感じを持たなかった。ところが日記に、新米で鶏飯を炊き、美味しいので食べ過ぎて下痢したなど、気取らず率直に記している。私はこれを読み、益軒は闊達な人なのだと、いっぺんに好きになった。
再度お伺いした際にはウイスキーの饗応をうけ、氏は自分も歴史に興味をもち奈良の古寺をスケッチしたことがあるとて、画帖を持ち出して示され、その緻密な描写に感心させられた。こうした雑談がはずみ、肝心の益軒の日記の続きに目を通してお別れした時は既に真夜中。拙宅近くの三等料理屋街で見張り中の刑事から「今までどこで何をしていたか」と、訊問を受けた思い出もある。
ついで翌19年夏、私は教育召集で福岡連隊に入り、演習中に太腿に少々怪我をしたが医務室には赤チンしかなかった。折よく九大医学部へ用務出張の古兵がいたので、彼に手紙を託して守一氏へ薬を頼み、当時入手困難な特効薬を頒けていただき、おかげで見る間に治癒し得た。
翌年初めの頃だったか、守一氏は実験材料が入手困難になったため、南方へ飛行機で向かわれた、と耳にした。学問のために身の安全を顧みられない態度に感心させられた。同時に、またお逢いする機会があるだろうかと考え、急に悲しさがこみ上げてきたのであった。