一般財団法人 貝原守一医学振興財団

貝原守一 を語る

貝原守一を語る

桝屋 冨一

杉山 浩太郎

野村 太郎

井上 忠

 

 

天才貝原守一君 
                                          桝屋 冨一

  「暗中模索の中から新しい固有の方法と活動の諸手段とをもって新しい学問が忽然と現れて来るのは天才の力による」貝原君278歳の時の「Pasteurの科学精神」の冒頭である。天才は天才を知るとはこのことである。
 細菌学と草創期のVirus学についての驚くべく早熟というか年齢不相応の優れた論文が多いのは勿論であるが、彼の関心は生命科学を含めたこの両学問に止まるものではない。
 私などには両学問の成果は可成り実用化されたものもある位に考えていたが、彼には実用化などは低次元の問題であったと思われる。
 「Robert Koch以来、急速に発達した細菌学の成果を将来人類の文化的創造的発展の立場から見て、専門以外の人にどれだけ役立てられたか非常に疑問だ」と嘆いている。和算に例をとって「関孝和、建部賢弘、安島直圓らによる『円理の完成』に到るまでのあれだけ高度の進歩をとげた和算が、今から考えると結局ただ存在したというだけで、社会的文化史的には大した役割を演じていない。
 同時代のNew-tonLeipnitzEulerLaprasらに到るヨーロッパの数学を、その発展の環境とを比較して見た時非常に淋しい」「関孝和時代の時代環境、日本全体の数学的科学的環境が未成熟であった。(職人技術や芸術は異常に発達をとげたに拘わらず)折角の独創的な数学理論の発展を行き止まりにしたのではないか」と痛嘆するのである。
 私はあの戦争が貝原守一という天才学者の、想像さえ出来ない学問的貢献の若木を伐り倒し焼き去ったことを、世界人類のために嘆かずにはいられない。
 初めて会ったのは五高1年生(19289月、の溝渕校長との数人ずつの面接の折であった。夏休みをどう過ごしたかとの問いに対し「義兄の学位論文の清書をしました」と眉を挙げて答える貴公子であった。19441224日助教授としてインドネシアのバンドン防疫研究所へ赴任のため軍属服も颯爽と第三内科の実験室に別れに来たのが最後であった。

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