江戸時代の儒学者であり、博学者であり、教育者でもある貝原益軒は、寛永7年(1630)11月14日、福岡城内の東邸で生まれた。先祖は藤原氏の出で代々岡山県吉備津宮神官をつとめ、祖父宗喜の代から福岡藩黒田氏に仕える。父寛斎は藩の祐筆役(書記)、母は豊前の名族緒方氏の支族三毛門氏の娘ちくである。
益軒は5人兄弟の末っ子五男で、父34歳の時の子。通称は助三郎、のちに久兵衛、諱を篤信、字を子誠、号は損軒で、益軒と改めたのは79歳の後半からであった。
益軒は19歳の時、2代藩主忠之の御納戸御召料方(衣服調達の出納係)として仕える。一度免職されるが、3代藩主光之の招きにより再び藩に仕える。復職後は待遇もよく、活躍の揚が拓けていく。益軒は旅好きであり、また藩の命により、京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回行き、見聞を広めた。益軒は数多くの書物を出版したが、代表的な名著は『黒田家譜』『筑前国続風土記』『大和本草』『養生訓』『慎思録』『大疑録』などである。益軒の墓は東軒夫人の墓と並んで、福岡市中央区今川2丁目の金龍寺に祀ってある。末裔分家の墓もここにある。末裔分家が出来たのは、益軒9世信敏の姉・鹿のところに石田家から秀雄が養嗣子に入ってからである。以後、分家は秀雄から収蔵、守一、宗重と継承、現在に至る。