一般財団法人 貝原守一医学振興財団

貝原守一 を語る

貝原守一を語る

桝屋 冨一

杉山 浩太郎

野村 太郎

井上 忠

 

 

貝原守一先生の思い出 
                                   杉山 浩太郎

  昭和15年卒の同級生5名が、いずれは軍陣医学とやらに必要であろうと、今で言えば自主トレを細菌学教室で2カ月程続けたことがあった。その間ときどき来られては適切な助言をくださったのが貝原先生であった。通学の途次、夏など白い麻服にパナマ帽、白靴、白手袋で端然と電車に坐って居られた先輩が貝原先生だったと気がついて、お堅い先生かと思ったら、気さくに話をされると皆で喜んだ。やがて貝原先生のツベルクリン活性物質精製のお手伝いから私の研究生活は始まったが、先生には細菌学は勿論、その他数えきれぬ程いろいろのことを教えて頂いた。
  先生は卒業後第2内科で臨床医学を学ばれて、医学医療の概略を知ってから目的の細菌学に入る予定に従ったと言って居られたが、各種の病気のこと、殊に血球のことなど病理学者かと思う程よく知って居られた。また大変な勉強家で教室に送って来る多数の外国雑誌は、英米仏独を問わず目を通されるらしく、これを読んでごらんと渡される論文には英文独文は勿論しばしば仏文のものもあった。
  趣味と言っておられた油絵は、素人離れした先生の作品が戸田教授室の壁にかけてあった。また考古学や歴史、ことに文化史、美術史については関心も高く造詣も深かった様に思われた。或る夏教室の用で中国の天津に行くことがあり、その一日貝原先生に誘われて黄土地帯からアンダーソン博士らが発見したというシナントロプス・ぺキネンシスの頭蓋骨、顎骨をフランス系ミッションの高等商業校に見せて貰いに行ったことがある。先生がその骨の所在をどこで知られたか分からないが、先生の折あらば見たいという熱意がその機会を生むことになったのであろう。
  また或る年京都での学会の後、2、3人が奈良の古寺めぐりに先生に同行したことがある。和辻哲郎氏の古寺巡礼の最も見どころの抜粋の様な一日であったが、三月堂とその諸仏、新薬師寺の十二神将、唐招待寺の金堂、薬師寺の塔と諸仏等、千年の仏像を目前にして先生の説明や感想を聴いた時の感動は忘れられない。ことに薬師寺の東院堂の聖観音を目のあたりにしてその美しい威容とでも言いたい姿が、先生の印象とどことなく似ていて、「これは私の一番好きな仏像です」という先生の声に改めて厨子の中を見つめたことを思い出す。
  或る時先生がわれわれの居る助手室に連れて来られた方を吉岡修一郎さんですと紹介された。吉岡さんはノミルグソン哲学の祖述者、紹介者として知られ、『創造的進化』の翻訳がある。先生は吉岡さんとの交友の間で生命と物質の問題などへの議論を深められたのかも知れぬ。何れにせよ私は細菌学教室の数年間、広く且つ深い教養を持つ文化人の先生のもとでいつもカルチャーショックを受けていたわけである。
  昭和17、8年頃先生の著書を頂戴した。今手許に見つからないが、たしか『細菌の歴史』という書名であったと思う。古今の世界を恐慌に陥れた顕著な疫病の発生とその運命について、各疾患別に、実に簡潔且つ周到に記述された文章であった。各疾患の歴史、つまり疫病を主体に見て、その盛衰、その盛衰にかかわった自然及び社会的環境と、生死のはざまの人間のいとなみなど、丁度細菌と人間の織りなす壮大なロマンを見る様な気がした。
  昭和18年には初代九大細菌学教授小川政修名誉教授の『西洋医学史』が出版された。これは小川先生畢生の広大な名著であるが、もし将来これを増補する人を求めるとすれば学孫に当たる貝原先生以外にはないなどと考えたことがあった。戦後多く出版された病気と社会の関連を取扱った書を見る度に貝原先生が惜しまれる。
  昭和19年6月頃先生からバンドンのパスツール研究所に行くが一緒に行かないかとお誘いを受けた。私はその年3月大決心して戸田教授の御許可を得、沢田教授にお願いして内科医として再出発をしていた。既に後戻りは許されない事情を述べて残念ながらお断りした。先生が出発される日、中佐相当軍属としての正装の先生を雁の巣飛行場で見送った。それが先生にお会いした最後になった。
  今から思えば当時日本軍は南太平洋の戦局の実情を国民に殆ど知らせなかった。サイパン島の米軍機の大群が東京の下町を大空襲し、一面焼野原としたのすら全国には充分な報道は行われなかったと思う。
  今回研究者援助の目的をもつ貝原財団発足の話を聞く。学問の名門貝原家の顕彰のためにもまた若くして逝かれた偉才貝原守一先生の追憶のためにも一大快挙と考える。願わくば運営よろしきを得て永くその目的を達成されんことを。

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